「すぐにもう一度スケジュールを組み直す。進捗状況を確認しろ。長谷川! お前はもういい! 行け!」「でも……」「お前が今ここにいて、どうするんだ!」その冷たい言葉に、自分の無力さを痛感する。(泣くな! 泣くな、私。泣く資格なんてない……)「はい。本当に申し訳ありませんでした」もう一度深く頭を下げ、部屋を後にすると、こらえていた涙が零れ落ちそうになる。そんな醜態を晒すわけにはいかず、化粧室に向かおうと小走りに廊下を進んでいたとき――「長谷川?」休憩室にいたのだろう、崎本に呼び止められた。完全に涙が頬を伝っていた日葵は、崎本の顔を見ることができず、足だけを止める。背後から近づく足音が聞こえる。(お願い……今は誰にも会いたくない)こんな顔を見られたくないし、今、優しくされることなど許されない。「どうしたんだ?」日葵の異変に気づいたのか、崎本が覗き込んでくる。「どうして泣いてる? 何かあった?」優しい問いかけに、日葵はブンブンと首を振った。「なんでもありません。少しミスを……」そこまで言った瞬間、冷ややかな視線を感じ、日葵は振り返った。「チーフ……」コーヒーでも買いに来たのかもしれない。けれど、壮一の目に映るのは、凍りつくような冷たい視線。その瞳に射抜かれ、心臓がバクバクと音を立てる。指先が、一気に冷たくなるのが分かった。「お前の今やるべきことは、それか?」呆れたようなその言い方に、日葵の心は真っ黒に塗りつぶされた。「ちが……失礼します」それだけを絞り出し、日葵は化粧室へと駆け込んだ。やるべきことは分かっている。社内のすべての書類や手配をやり直さなければならない。社内のスケジュールは「12月31日」になっている。 けれど、どこで「24日」が先方に伝わったのか、未だに分からない。そして――その原因を探ることに、もう意味はないことも。なんとか涙を止めようと、トイレの個室で必死に呼吸を整える。それでも、先ほどの壮一の冷たい声が頭から離れず、涙が止まらない。これこそ、今すべきことではないのに……5分ほどして、ようやく涙を抑えると、日葵は鏡をじっと見つめた。(今すべきことは、仕事)音が鳴るほど自分の頬を叩き、気持ちを奮い立たせる。そして、まっすぐ事業部へと戻った。ほとんど誰もいないフロアに、ホッと息を吐
(あっ、満月……)吸い寄せられるようにベランダへと出て、夜空を見上げた。真っ黒な空の中、ぽっかりと浮かぶ真ん丸の月が、静かに日葵を見下ろしている。ポロポロと涙がこぼれるのも拭うことなく、ただじっと月を見つめていた。その時――カタン突如、小さな音がして、日葵はハッとしてそちらに目を向けた。「こっち来て」静かに響いた声は、薄い防災壁の向こうからだった。壮一の声。その言葉の意味をすぐには理解できず、日葵は目を見開いた。「長谷川、こっちこい」長谷川、と呼ばれると抵抗できない。(ずるい)そう思いながらも、一歩一歩、二人を隔てる壁へと足を踏み出す。壮一の姿が見えないからこそ、近づくことができる。「ごめんなさい……」申し訳なさで、それしか言えなかった。壁にそっと手を添え、呟くように謝罪の言葉を述べる。「こっち」「え?」不意に響いた壮一の言葉の意味が分からず、日葵は聞き返した。「長谷川、外を見て」促され、日葵は視線を外へ向ける。そこには、壮一の手だけが見えていた。少し躊躇するような、掠れた声。その響きに勇気を出し、日葵はそちらへと向かう。そして――覗き込むように、壮一の視線と交わった。「チーフ、本当にご迷惑をおかけして……」「あーあ」日葵が言い終わる前に、壮一の声がかぶさる。その言葉の意味は分からなかった。でも、なぜか――壮一が泣きそうに見えた。日葵は、ただじっと壮一の瞳に映る自分を見つめる。その綺麗な瞳が揺れていた。「……悪かった」静かに響いた言葉に、日葵はブンブンと首を振った。「私が……」「いや、俺だって確認すべきだったし、もしかしたら見ていたかもしれない。なのに……あんな頭ごなしに……」その言葉を聞いた瞬間、ふっと力が抜けた。ほっとした途端、押し込めていた涙があふれ出す。嗚咽を漏らした頬に、ふいに温もりが触れた。驚いて顔を上げると――「長谷川、泣くな。大丈夫だから」優しく響く壮一の言葉。どれだけ、あの冷たい視線が自分を落ち込ませていたのか。日葵自身、気づいていなかった。優しく、壮一の指が涙を拭う。それを拒むことも、何か言葉を発することもできなかった。ただ、その手が温かくて――されるがままになっていた。そっと、頬を壮一の両手が包む。「ここ、叩いた?」撫でるように、昼間
週末になり、相変わらず休みなく働く壮一たちに申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、日葵にできることと言えば、コーヒーを淹れることぐらいだった。「お前たち、もう上がれよ。たまには週末楽しんでこい」首を軽く回しながら言った壮一の声に、日葵と柚希は目を合わせる。「チーフ、お疲れですよね?」心配そうに声を掛けた柚希に、壮一はふわりと笑顔を見せ、軽くデコピンする。そんなやり取りを、日葵はただ見ていた。「お前みたいなひよっこに心配されるほど、年取ってない。早く帰れよ。……長谷川も」まるでおまけのような言い方に、日葵は小さく頷くと、視線を逸らしながらカバンに荷物を詰め込んだ。「柚希ちゃん、今日は終わろうか」なんとか先輩らしく振る舞い、柚希を見ると、柚希はなおも不安げな表情で壮一を見ていた。日葵とて、壮一のことを心配していないわけではない。目の下にははっきりとしたクマができ、顔色も悪い。気になって仕方がなかった。でも、それを言葉にすることも、態度に表すことも、今の日葵にはどうしてもできなかった。***一人で帰る気になれず、日葵はスマホを手にする。呼び出したのは同僚の佐奈。会社から一駅離れた、落ち着いた店を指定し、先に待っていた。普段あまり飲まないビールをチビチビと口に運びながら、ため息ばかりついている。「日葵。お疲れ」不意に聞こえた声に、俯いていたことに気づき、日葵は顔を上げた。「ごめん。ありがとう」小さく微笑んだ日葵に、佐奈は苦笑する。「なに? 疲れすぎじゃない? それとも何かあった?」適当に料理と飲み物を追加しながら、日葵はまた大きなため息をついた。「日葵、ため息つきすぎ。理由は仕事? それとも?」何かを察しているのか、佐奈にじっと見つめられ、日葵は言葉を選ぶ。「仕事で大きなミスをして落ち込んでる」そう言うと、佐奈は「そう」と軽く相槌を打った。「それと?」「え?」佐奈の問いに、日葵は意外そうに佐奈を見た。「ミスの大小はあれど、そんなこと今までに山ほどあったじゃない。そのたびに、こんなに目の下にクマを作って寝不足になったの、見たことない」佐奈の言葉に、日葵は言葉に詰まる。どうして、これほどまでに今回のミスが自分を落ち込ませているのか――分かるようで、分かりたくない気持ちだった。「昔から親同士が家族ぐるみで付き合
「日葵、話したいならきちんと説明しなきゃ」 鞠子の言葉に、日葵は言葉に詰まる。「つまりね、日葵は淡い恋心を清水チーフに持っていたのに、清水チーフは日葵に何も言わずにアメリカに行ってしまった。ずっとずっと一緒にいたのに」 代わりに簡潔に説明した鞠子の言葉が、日葵の心の中に突き刺さる。(やはり壮一は私を捨てた)「でも、どうして清水チーフは何も言わなかったんですかね? 何も言えなかったってこと?」 黙って聞いていた佐奈だったが、少し考えた後、日葵が考えたことのなかったことを口にした。(言えなかった?)「そうかもしれないわね」 そう答えた鞠子の言葉に、日葵の中で「どうして?」が駆け巡る。「それで、清水チーフに迷惑をかけたことが、日葵は引っかかってるの? それに、やっぱりまだチーフのことが気になるから、誰の誘いにも乗らなかったってこと?」 一人納得したように言う佐奈の言葉に、日葵は思わず声を上げる。「違う! そんなことは絶対ない! 私はもうそうなんて、壮一なんて……」 ついムキになって言ってしまい、日葵は言葉を止めた。「日葵……」「どうして私をこんなに振り回すのよ……。大嫌いなのに……」酔いも手伝って、呟くように言った日葵を、二人はただ見ていた。千鳥足でふわふわとしながら、タクシーを降りてエレベーターに乗り込む。「遅かったな」「え?」 誰もいないと思って乗ったエレベーターから聞こえた声に、日葵は目を丸くする。「チーフ……」 地下駐車場から乗ってきたのだろう、壮一に出くわして、日葵は言葉に詰まる。「気分転換できたか?」「あ……はい。先に帰ってすみません」「別に仕事もないのに残ることないだろ?」 その辛辣な言葉に、日葵は言葉を失った。「あっ、悪い。そういう意味じゃない」 日葵の顔色が変わったのに気づいたのか、壮一は小さくため息をついた。「どういう意味ですか?」 もう半ばヤケになり、日葵は顔を上げて壮一を見た。「無理をさせたくないだけだ」 いきなり言われたその言葉に、(柚希ちゃんをじゃないの?)と素直じゃない思いが溢れる。「誰をですか? かわいい柚希ちゃん?」「はあ?」 苛立ちを含んだその言葉と同時に、エレベーターは二人の階へと着き、音もなく扉が開いた。「ほら、降りろ」酔っているからだろうか、感情がコントロー
日曜日、崎本と昼に待ち合わせをしていた日葵は、朝早く目覚めてしまい、ため息交じりにベッドから降りた。壮一がいなくなったあの日から、ことごとく男の人を寄せ付けてこなかった日葵にとって、男の人と二人でどこかへ行くことは、やはり気が重かった。そんなことに慣れてもいないし、何を話すべきかもわからない。そんなことを思いながらも、日葵はいつも通り化粧をして、仕事のときよりは少しだけ明るい色の服を選ぶと、鏡に映る自分を見た。男の人とどこかへ行った記憶と言えば、壮一以外ない。その事実に気づき、自分でも少し自嘲気味な笑みが零れる。(私、何をしてたんだろう)別に壮一に義理立てする必要などもちろんなかったのに、結果だれとも付き合うことなく男嫌いのようになったのは、まぎれもなく壮一のせいだ。日葵はそんなことを思いつつも、まだ待ち合わせまで時間があるが出かけることにした。今日は壮一に会わなかったことに安堵して、待ち合わせの駅へとゆっくり歩く。梅雨ももうじき終わり、本格的にやって来るだろう夏を前に、少しだけ暑くて、日葵は長袖のカーディガンの袖をまくった。「長谷川」不意に聞こえた声に、日葵は振り返った。そこにはラフな格好をした崎本がいて、日葵は驚いて目を見開いた。「部長……早くないですか?」「それを言うなら長谷川もだろ?」確かにその通りだ。崎本が早いのなら、日葵も早いに決まっていた。お互いどちらからともなく笑いが漏れる。「ようやく長谷川が出かけることを了承してくれたと思ったら嬉しくて」サラリとその言葉を言う崎本は、大人で恋愛経験も豊富なのだろう。私服の崎本は、実年齢よりも若く見え、壮一とは違った魅力をもっている。優しそうで誠実そう。そんな印象を持つ人が多いだろう。そんなことを思いながら、日葵は正直に崎本に話すことにした。「部長と違って私は、あまりこういう経験がないので……どうしていいかわからなくて」最後の方が、こんなことを告白している自分が恥ずかしくて、日葵の声は小声になる。「え? 長谷川が?」意外そうな崎本の言葉に、日葵は小さくため息をついた。「どういう意味ですか?」「ごめん。それだけ可愛いし、モテてるし、意外だった。悪い意味じゃない」そう言うと崎本は優しく微笑む。「長谷川は何もしなくていい。今日は俺に付き合って?」その優しさに、
「長谷川、ここで待ってて。飲み物買ってくる」少し先にあるコーヒースタンドを指さす崎本に、「ありがとうございます」と日葵は素直に従った。ここ最近、仕事でもミスをしたり、多忙を極めていた日葵は、ベンチに座るとぼんやりと海を眺めていた。昼過ぎの天気のいい海沿いは、キラキラと光が反射してとても綺麗だった。「はい、コーヒーでよかった?」手に二つのカップを持った崎本に、日葵は小さく頷くとそれを受け取った。「部長、ありがとうございます」そんな日葵の言葉に、崎本は柔らかい微笑みを浮かべると、日葵の横へと腰を下ろす。「何を考えてた?」「え?」いきなり言われた質問の意味がわからず、日葵は隣の崎本を見た。「とくには何も……。久々だなって。こんなゆっくりとした時間って」日葵のその答えに、崎本はホッとしたような表情を浮かべた。「向こうから戻ってくる時、あまりにも長谷川の横顔が遠くを見てる気がして、なぜか知らない人みたいに見えた」そこまで言った崎本は、めずらしく苦笑すると「何を言ってんだよ俺」と海に視線を向けた。「部長……」最近いろいろありすぎて、現実逃避していたのかもしれない。そんな心情が出ていたのだろうか?そんな真剣な崎本に、日葵の中にだんだんと疑問が湧き上がる。こんな中途半端な気持ちを持っている私が、部長のそばにいていいのだろうか?真剣に自分と向き合ってくれていることが、今日一緒にいるだけでも痛いほど日葵には伝わった。「あの、部長」「ん?」優しく微笑まれ、日葵はどう言葉にしていいか思い悩む。「今日は誘っていただいてありがとうございました。それで。あの」うまく言葉が見つからず、言葉を止めた日葵が何を言いたいのか、崎本は悟ったのだろう。「清水君? 長谷川をこんな風にしたの?」その言葉に、日葵は驚いて顔を上げた。「図星か」日葵の表情が、YESと答えてしまっていたのかもしれない。何も言えずにいた日葵に、崎本は髪をかき上げると小さく息を吐いたのがわかった。「聞いてもいい?知らないと俺はどうしようもできないから。それに、俺はずっと長谷川に好意を持っていることを伝えてる。聞く権利はあるよな?」珍しく強い口調の崎本に真剣な瞳を向けられ、日葵は小さく頷いた。日葵はキュッと唇を噛んだ後、ゆっくりと言葉を発した。「清水チーフとは、幼馴染ってことは言いま
週明けの、いつもより早い月曜日。久々に穏やかな気持ちでいられるのは、昨日の時間があったからかもしれない。日葵はそう思いながら、電車の外を見ていた。まだ誰もいないフロアに入ると、備品のチェックや清掃の確認をする。少しでもみんなの仕事を減らすべく、日葵は自分のパソコンを立ち上げた。プレスリリースまで2カ月を切り、大手ゲーム機メーカーからも発売されるため、接待や会議の予定も多く組み込まれるようになってきた。そうなると、やはり壮一が出席することも増える。(こんなに会議や接待が入って……いつ眠れるのよ。……関係ないけど)壮一のことを考えたくない気持ちと、どうしても気になってしまう自分に、日葵はため息をこぼす。昨日、崎本との楽しい時間を過ごし、壮一のことを考えないようにしようと心に決めても、嫌でも考えなければいけないこの状況はどうしようもない。制作現場でも必要な人間である壮一のスケジュールは、重要を示す赤色の文字で溢れていた。(いつ、自分の仕事をしているんだろう……)そう思い、無意識に壮一の部屋の方向へ視線を向けると、明かりが漏れているのがわかった。消し忘れたのかと思い、そこへ足を向けた日葵は、ドアを開けて息を飲んだ。ブラインドから差し込む光にも気付かず、机に突っ伏して眠る壮一の姿が目に入る。いつものキッチリとしたスーツ姿ではなく、上着はデスクの前にあるソファに無造作にかけられていて、ネクタイも投げ出されていた。いつでも完璧で、乱れた姿など見たことのなかった日葵は、その光景に、なぜか胸がギュッと締め付けられる。当たり前だが、壮一だって人間だ。この数カ月、壮一が来てからのチームの一体感は格段に上がり、壮一のすごさを日葵自身も実感していた。上との連携もスムーズになり、スタッフも増え、日葵の負担も確実に減った。そう。当たり前だけど、壮一の負担は確実に増えている。そんなことすら気づいていなかった。それほど自分の気持ちにいっぱいいっぱいで、過去のことで頭がいっぱいだった自分は、なんて子供なのだろう。壮一は、自分と違って努力なしに、才能だけで簡単に何でもできる。どうせ自分だけがなにもできない、普通の人間。――そんなふうに思っていた自分が恥ずかしかった。音を立てないようにそっと近づいて、散らかったデスクと疲れた顔の壮一の寝顔をじっと見つめ
おはようございます」明るく元気な声が聞こえて、日葵はハッとして振り返った。「柚希ちゃん、おはよう」いつもの出社時間が近づいていたことに気づき、まだ落ち着かない気持ちをなんとか整えると、目の前の仕事に取りかかった。そんなとき、周りの雰囲気がピリッと引き締まったような気がして、日葵は顔を上げた。「手が空き次第、ミーティングルームに集まってくれ」その声に視線を向けると、部屋から出てきた壮一が颯爽と歩いてきた。さっきとは別人のように、いつも通り完璧な壮一がそこにいた。シャワーも浴びたのだろう。スーツも違うものに着替えられていて、常に泊まる準備ができていることに日葵は気づく。途中入社で、社長や会社の期待を一身に背負い、失敗が許されないこの状況でも、弱音ひとつ吐かず、常に冷静に対処してきた壮一。その言葉に、一斉に返事が返り、スタッフたちはミーティングルームへと向かっていく。日葵も、目の前の作業に区切りをつけてそのあとに続いた。ミーティングルームに入ると、大きなモニターには広大な緑が広がる世界。高台からその景色を見下ろす、ひとりの男の子と女の子。そして、真っ白な鳥が空へと羽ばたいていた。「The beginning new world」――新しい始まりの世界。企画段階で知ってはいたが、こうして映像として目の前に現れたのは初めてで、日葵はその世界観に釘付けになる。「まだ未完成だが、ここまでで意見を聞きたい」壮一の言葉に、技術スタッフをはじめ、何十人ものメンバーが目を輝かせて頷いた。一人の少年が、襲いかかる敵に立ち向かい、仲間を増やしながら戦っていく。構造自体は、どこか既視感のあるRPGだが、今回は会社の威信をかけ、美しい映像・音楽・クオリティに徹底的にこだわっている。今までに見たことのない臨場感、命を宿したようなキャラクター。その完成度は、ゲームの範疇を超え、まるで一本の映画を観ているようだった。短い映像だったが、気づけば、思わずため息が漏れていた。すっかりその世界に引き込まれていた日葵は、周囲から意見が出始めたタイミングでようやく我に返る。慌てて記録をとろうと、パソコンのキーに指を走らせた。数時間にわたるディスカッションもようやく終わり、各自が自席へと戻っていくのを見送りながら、日葵は上層部に提出する資料の構成を頭の中でまとめ
中に入れば、クリスマスイブという日になってしまったため、家族や親しい人もという社長の計らいで、かなりの人数が集まっており、その光景に日葵は圧倒された。そんな中、壇上で社長や副社長が挨拶をしている横に、微笑を浮かべ堂々と立つ壮一の姿が見えた。「強制でもないのに、すごい人だな」その様子に崎本も、社長の話をききながら周りを見渡す。「本当ですね」日葵も同意しつつ、少しの居心地の悪さを感じつつその場にいた。挨拶も終わり、歓談になるとみんな思い思いに挨拶や、食事を楽しみ始める。そんな様子に崎本が日葵に問いかける。「強引だったよな」「そんな……」たくさんの人のざわめきに、二人の声は聞こえないだろう。日葵は意を決して崎本を見た。「今まで本当にありがとうございました。でもこれ以上は……」優しい崎本にこんなことは言いたくはない。でももうこれ以上振り回すなんてことはできない。そんな思いで日葵は頭を下げる。「顔を上げて」いつも通りの崎本の声に、日葵はぎゅっと唇をかみしめながら顔を上げる。そこには笑顔の崎本がいて、日葵はわけがわからなくなる。「俺こそ悪あがきをしてごめん」「え?」「ずっと、長谷川が俺のことを見ていないことなんてわかってたのに」ふわりと優しく崎本が日葵の髪をなでる。その瞳には何かをふっきったような瞳だった。「部長……」これで最後とわかっていたからこそ、あんなに強引に自分を誘ったことを日葵は悟る。「それではっきりと自分の気持ちはわかった?」静かに問われ、日葵は答えに詰まり口を閉じた。壮一のことを好きだと認めることは、またあの時のような苦しみがあるのだろう。愛なんて絶対じゃない。こんな醜くてぐちゃぐちゃな気持ちなどなければ……。そんなことを思っていると、聞きなれない言葉が降ってくる「まさか、まだ二人ともぐずぐずしてるのかよ」舌打ちでもしそうな崎本のセリフに、日葵は驚いて崎本を見上げた。「そろそろ素直になったら。人を好きになることはつらいことも多いけど、幸せなことのほうが多い。このまま彼がほかの人のものになって、結婚して君以外が隣にいることが想像できるの?」崎本の言葉に一番に思ったことは、そんなの嫌! それだけだった。(私……)そこまで思ったところに、前から社長と隣には母である莉乃が壮一と一緒にが歩いてくるのがわかった。
朝から街中クリスマスソングがながれ、楽し気なカップルがたくさん溢れている12月24日。「ようやくですね」柚希の声に日葵は小さく頷いた。「今回のこのfantasy worldは、最新の技術と映像を駆使して作られております」壇上で完璧な姿で発表をする壮一を、日葵と柚希は会場の後ろで見守っていた。マスコミ関係者からも感嘆の声が漏れ、問い合わせも多く各ゲーム雑誌などからも取材が殺到している。一日早く始まった予約もかなりの予想を上回る数字で、さらにこの発表で伸びるだろう。そこには完璧に出来上がった「新しい始まりの世界」の映像が壮一の音楽と一緒に流れていた。雄大な映像と、迫力の中にも繊細さの感じるオーケストラの音が壮大さを広げている。(やっぱりすごい……)壮一の才能をまざまざと確認して、日葵はただその映像を見ていた。映像の最後に主人公の男の子と女の子がそっと手を取り合う。そしてあの、車の中で聞いた壮一の曲が切なく流れていた。『さあ、新しい未来に……』その言葉で映像は締めくくられていた。「長谷川さん!」驚いたような柚希の声に、日葵はハッとして自分の頬を抑えた。いつのまにか流れ落ちていた涙に気づかなかった。「嫌だ、何度もみてるのに。大画面は迫力あるね」言い訳のように言った日葵に、柚希は何か言いたげな表情を浮かべた。「長谷川さんって」「ん?」聞き返した日葵に、柚希は小さく首を振り「なんでもありません」そう答えると切なげに微笑んだだけだった。日葵も柚希に何か言葉をと思ったところで、その空気を壊すように大きなスピーカーからアナウンスが流れる。「この後、完成パーティーに映らせて頂きます。飛翔の間にご移動をお願いいたします」司会の言葉に、興奮したように話しながら出て行く人々を慌てて日葵と柚希も見送る。その後、チームのみんなが待機していた部屋へと一度移動して、片づけをしてたところに、壮一が戻って来るのがわかった。「みんなお疲れ様」発表を終えネクタイを少し緩めながら小さく息を吐き、壮一はチームのみんなに声を掛ける。「チーフ、お疲れ様でした!」「感触よかったですね!」苦労して作り上げてきたものが、好感触だったことにみんなが興奮気味だ。「ああ、これもみんなのお陰だ。今日はこの後思う存分食べろよ」「はい!」数十人いる部屋は熱気と興奮で溢れ
「どうして? なんで昔みたいにはできないの?」絞り出すように問いかけた日葵に、今度は壮一がビクッと肩を揺らす。「もう昔とは違う」静かに言われた言葉に、日葵はもう感情がグチャグチャで自分でも支離滅裂なことを言うのを止められなかった。「どうして? ようやく仲直りできたのに、どうして昔みたいに仲良くできないの? ねえ? どうして」泣きながら壮一に詰め寄る日葵の目に、苦し気に歪む壮一の瞳が目に入ったと思ったと同時に、いきなり壮一に引き寄せられる。苦しくなるぐらい力強く抱きしめられ、日葵は息が止まるかと思った。壮一の肩に顔を埋める形になり、その表情は解らない。ただ、驚きと壮一の力強さに、呆然とただ抱きしめられるままになっていた。「そうちゃん……?」ただ心臓の音がバクバクと煩くて、ただその呼び名が口から零れ落ちる。「言っただろ? 俺はお前といると触れたくなるって」耳元ではっきりと言われた言葉に、日葵の思考はピタリと停止する。そしてグイッと身体を離され、そこにある壮一の熱の孕んだ瞳にハッとする。兄でもない、ただ一人の男の人だと認識するも、どうしていいかわからず見つめられる瞳から逸らすこともできなくて、ただ壮一を日葵も仰ぎ見た。「幼馴染でも、妹でもなく、ただ一人の女として好きだ」真っすぐに言われ、日葵の思考は完全に停止する。「だから、一緒にいればお前触れないことはもうできない。無邪気に触れていたころとはもう違うんだよ。だから、もう日葵とはいられない。お前は崎本部長が好きなんだろ? お前を困らせるつもりはなかったんだよ。さんざん今まで苦しめたんだからな」最後は寂し気に伝えられた壮一の言葉が、ただ無機質な空間に響いた。「帰ろう」いつのまにか涙はとまり、ドクンドクンと自分の心臓の音だけが響いていた。(私のことが好き?)日葵は何も答えることが出来ないまま、二人でお互いの玄関の前で立ち止まる。鍵を開けて家に入らなければ、そう思うも日葵はこのまま帰っていいの?そう自問自答したまま立ち尽くす。なにを言えばいいかわからないが、とりあえずこのままでは嫌で壮一を呼ぼうとしたその時、一息先に壮一の声が聞こえて日葵の肩が揺れた。「こんな大切な時期に本当に悪かった。困らせるつもりはなかった。上司として明日からもよろしく頼む」バタンと音がして壮一の姿が見えな
「どこって……。仕事の件はなんでしたか?」口を手で覆い、息を吐きだしながら答えた日葵に、少しの無言のあと壮一から仕事のファイルの場所を尋ねられ、日葵は端的に答えた。「おつかれさまでした」こんな状況がバレたくなくて、今すぐに電話を切ろうとした日葵だったが、壮一がそれを許すわけもなかった。『ひま、お前今何してる? 誰かと一緒か?』「違います。一人です」馬鹿正直に答えてしまったことを後悔するも、昔から〝ひま”そう呼ばれると怒られている気がしてしまう。『じゃあ、場所はどこ?』「え?」答えたくないわけではなく、日葵自身どこにいるのかわからず、周りを見渡す。見慣れない景色にキョロキョロとしていると、受話器の向こうからため息が聞こえた。『すぐに位置情報送信しろ』命令されるように言われ、日葵自身自分の場所を確認する必要もあり、位置情報をあらわす。どうやら、駅とは真逆の方へと歩いていたようだった。「大丈夫です。わかりました」きっと迎えにくるというだろう。そんな壮一に日葵は静かに言葉を発して、電話を切ろうとした。今壮一に会えば、ぐちゃぐちゃな気持ちがさらに加速しそうだった。『ひま、いい加減にしろ』かなり怒った様子の壮一に、なぜか日葵は涙がポタリと頬を伝う。仕事も忙しく、崎本の事も、壮一のことも、何もかもがわからない。「だって、だって……」『もういい、こっちで確認する』え?日葵のスマホの位置情報など、きっと壮一にかかればすぐにわかるだろう。『なんでそんなところに、カフェも何もないな……くそ』呟くように聞こえた後、電話の向こうでガサガサという音だけが聞こえる。『絶対に動くな!』その言葉を最後に、日葵の耳に無機質な音が聞こえた。ぼんやりとしながらもうどうしようもないと、日葵はその場に立ち尽くしていた。ようやく寒い、そんな感覚が襲いコートの胸元をキュッと手で閉じる。それから数分後、車ならそれほどの距離でないことが、壮一の車が目の前に止まったことでわかった。バンという大きな音を立てて、壮一が走って来るのが見えた。「日葵!」慌てたように壮一が目の前に現れ、なぜかほっとしてしまった自分に驚いた。会いたくない、そう思っていたのに。「お前なにやってるんだ! こんな寒いのに行くぞ」壮一も慌てていたのだろう、昔のように日葵の手を掴み車へと
「お疲れさま」あの日以来、もちろん社内で姿をみることはあったが、会話らしい会話を日葵はしていない。もちろん仕事が忙しかったこともあるが、なんとなく気まずかったのも事実だ。「お疲れ様です」複雑な気持ちのまま日葵は小さく微笑んだ。「少しだけいい?」「はい」この状況で嫌ですと言えるわけもなく、日葵は小さく頷くと駅には入らず崎本と歩き出した。「疲れた顔をしているね。体調は大丈夫?」「はい。仕事も大詰めですし」当たり障りのない答えを返しながら、崎本の表情を見ればいつも通りの崎本で、日葵はホッとする。「完成パーティー、結構派手にやるみたいだね」よほど社長である誠は、壮一が手掛けた仕事を労いたい様で、大規模なパーティーを企画していた。「そうですね」日葵は少し苦笑しつつ、崎本に答える。街中がクリスマスムード一色で、きらきらとイルミネーションが輝いている。そんな景色をぼんやりと見つめていた日葵の耳に驚く言葉が降って来る。「一緒に行かないか?」「え?」家族なども連れてくパーティーの為、もちろん妻や恋人を連れてくるだろうし、パートナー同伴という人は珍しくはない。つい聞きかえした日葵の目に、崎本の真剣な瞳があった。もちろん父である社長はもちろん、母や弟も来る場で崎本と一緒にいるということは、そういうことだと理解されるだろう。それがいけないことなのか?日葵はグッと唇をかみしめて自分の気持ちを考える。ずっと自分のことを甘やかし、見つめてくれた崎本。頑な自分をずっと見守ってくれた。しかし、日葵の頭に不意に『もう昔には戻れない』そう言った壮一の表情が思い浮かぶ。ぐちゃぐちゃな自分の気持ちがわからず、日葵は俯いて自分の手をギュッと握りしめた。きっと崎本はそんな日葵の気持ちなどお見通しなのだろう。「迷っているという事は肯定と受け取るよ」珍しく日葵の気持ちを聞くことなく、言い切った崎本に日葵は驚いて顔を上げた。「当日は一緒にいってもらうから。時間を取らせてごめん。気を付けて」それだけを言うと、崎本は静かに歩いて行ってしまった。(どうすればいいの?)ただ自分の気持ちがわからず、日葵は当てもなく街を歩いていた。さっきまで綺麗だと思っていたイルミネーションも目には入らない。崎本のことはもちろん尊敬してるし、好きか嫌いかと聞かれればもちろん好
「おはようございます」会社のエントランスに入ったところで、柚希に声を掛けられ、日葵は笑顔を張り付ける。あの後、まったく頭を整理できるわけもなく、眠れない週末を過ごした。壮一のことも、自分のことも日葵は整理することなどできはしなかった。自分は今、壮一にどういった感情を持っているのだろう。そして、壮一はどう思っているのか?そんなことを考えてももちろん答えなど出る訳もない。日葵の顔はむくみがひどく、なんとか化粧でごまかし週明けの月曜日出社していた。「おはよう、柚希ちゃん」「調子悪いですか?」柚希にもわかるほどの顔なのか、そう思うと日葵は心の中で小さくため息を付く。「大丈夫。それよりもうすぐだから頑張らなきゃね」自分のミスでいろいろな人に迷惑をかけたのだ。当たり前だが今は壮一のことより、仕事を優先すべきだと日葵は自分を叱咤する。「そうですよね。もうすぐですね。プレスリリース。その後は完成パーティーもありますよね」柚希の嬉しそうな声に反して、日葵は憂鬱になって行く。あっという間の師走を迎え、クリスマスにプレスリリース。もちろん王晦日のカウントダウンに合わせての発表の方がインパクトはあったはずだ。それでも、何も言わず社内はクリスマスに合わせてと色々各所調整してくれた。感謝しかない。日葵はそう思いつつ、頭の中でやるべきことを整理していた。「長谷川!」フロアに入ると一番に壮一の呼び声に、日葵はビクリと肩を揺らした。週末のあの日以来、壮一とは顔を合わせてはいない。どういうつもりで言ったのか聞きたかったが、どの答えを聞いても自分がグチャグチャになるだけのような気がして、何も聞くことはできなかった。「すぐにこのSテックに連絡を入れてくれ。後、パーティーの人数も変更になっているみたいだから確認して、手配してくれ」資料を日葵の目を見ることなく壮一は渡すと、すぐに違う連絡を始めた。今日は何か大切な打ち合わせがあるのだろう、いつもよりピシッと整えられた髪に、スリーピースの濃紺のスーツ。それを完璧に着こなし、片手にパソコン、もう片方にスマホで話をする壮一に、日葵は小さく返事をする。何もかもあの日のことなどなかったように、いつも通りだ。デスクに戻り、すぐに受話器を取ると電話を入れる。確認事項を終え、ボールペンを走らせていると、柚希が壮一のところ
『昔に戻ろう』その言葉のままなら、この距離なんて普通のはずだ。 小さい頃は一緒に眠ったことだって何度とあるし、いつもこの距離で会話をしていた。しかし……。やっぱり今は違う! 日葵の中で感じた感情はそれ以外の何物でもなかった。 離れてた時間のせいか、再会してからの上司としての壮一を見たせいか、理由など考える余裕はなかったが、日葵の心臓は煩いぐらいにドキドキと音を立てる。高校に入ってまったく話さなくなった冷たい壮一とも、小さい頃の優しい壮一でもない。今ここにいるのは今の等身大の壮一だ。 そのことが日葵を混乱させる。 知らない人のように感じる壮一に、ザワザワとするこの感情が何か考えたくなかった。「あっ、えっと」 そんな気持ちを悟られないように、日葵が話を続けようとしたのに壮一は目を逸らすことなく、日葵の瞳を覗き込んだ。そのままどれほど見つめ合っていたのだろう。きっとほんの数秒だがとてつも長く感じる。「日葵……」呟くような声とともに、更に壮一の顔が近くなる。え? 唇が本当に触れそうな距離まで壮一が近づき、日葵は動けなくなる。初めて見るかもしれない。熱を持ったような壮一に、この人は誰?そんな気さえする。しかしそんな日葵に気づいたのか、壮一はハッとしたように動きを止めた。「悪い」 何に対して謝られたのか全く分からない。 今ままでとは確実に違う、二人の距離感を意識しないわけにはいかなかった。 破裂してしまうのではないかと思うほど、心臓が煩く音を立てる。何……今の。 日葵の中で『生身の男』と言った崎本の言葉が不意に頭をよぎる。 冷たいぐらいだった身体が一気に熱を持つのがわかった。どうしていいかわからない日葵を他所に、壮一を見れば涼しい顔をして文字を直している。 「日葵、ここだろ?」 至って普通の壮一に、日葵は唖然としつつ、自分だけ動揺しているようでそれを隠したくて、表情を引き締めた。「そう。そこ。直したらご飯だから片付けてね。お茶持ってくる」 自分に対しての言い訳のように、日葵は言うとキッチンへと急いだ。 その後二人で食事をする間も、仕事の話ばかりしていた。 あえて日葵がその話題をしていたのか、壮一がそれ以外の話をしないのかわからない。しかし、ふと話が途切れて無言の時間が出来る。その静寂
あの日以来、少しずつ壮一との関係は変わって行った。日葵が望んだとおり、兄として家族としての関わりになってきたかもしれない。あの名古屋からの帰り、二人でクタクタになり家へと戻りお互いの家の前で、日葵は壮一に呼び止められた。『日葵、もう一度昔の関係に戻りたい。仲が良かったころに。それは無理?』その壮一の言葉に、日葵は無意識に言葉を発していた。『私も戻りたい』きちんと謝ってくれたのだから、これ以上意地を張る必要もなければ、ここからは壮一の負担になるようなことは避けたかった。自分の幼さから壮一を苦しめてしまったことも、日葵の中で後悔の念があったのかもしれない。週末の金曜日、名古屋から帰ってきてからもハードワークで疲れ切った顔をしていた壮一に、みかねて日葵は食事を食べに来るようにメッセージを送った。もしかしたら断られるかもと思ったが、すぐに壮一からは終わったら行くと返事がきた。安堵しつつ日葵は、壮一より早く会社を出ると、スーパーでメニューを思案する。長い年月、壮一の食の好みがどうかわったかわからない。悩んだ末に日葵は、子供の頃壮一が好きだった煮込みハンバーグを作ることにした。時間の都合もあり、それにサラダという簡単なメニューだが、デミグラスソースに玉ねぎやニンジン、ブロッコリーなど、野菜がたくさんとれるようにしようと考えた。家へ帰ると、さっとハンバーグを作りきれいに焼き色を付けた後、たくさんの野菜とデミグラスソースで煮込む。その間に、レタスとトマトを中心にサラダを作り冷蔵庫で冷やしておいた。時計を見れば、もうすぐ21時になろうとしている。まだかかるかな。そう思ってソファに座りテレビをつけたところで、メッセージが来たことを知らせる音が聞こえた。【もうすぐ行く】意外と早かったな。そう思いながら冷蔵庫からサラダを出したところで、家のインターフォンが鳴った。え?もうすぐって、本当にすぐじゃない。そう思いながら、パタパタと玄関に走って行くと、ドアを開けた。そこにはすでにシャワーも浴びたのだろう。スウェット姿で髪がまだ少し濡れた壮一がいた。「お疲れ様」「誰か確認しろよ」そう言いながらも、ポンと壮一は日葵の髪に触れると自分の家のように先に中へと入って行く。そんな壮一に、小さく息を吐くと日葵は後を追った。「おっ、うまそう。俺の好きな物
その後、運転を変わるという壮一の言葉に、日葵は素直に従うと助手席へと移動した。コーヒーを飲みながら、ぼんやりと外の風景に目を向けた。そして、初めのころの壮一の態度を思い出した。「ねえ? どうして謝る気になったの?」すっかりさっきのままため口になっていたが、日葵はそれに気づかず、胸の中の棘が抜けたような気持ちだった。そして少し意地の悪い質問だと思ったが、日葵は初めのころの態度とは違う壮一に問いかけた。「ああ……」壮一は少し考えるような表情をしたあと言葉を発した。「戻ったばかりのときは、日葵をこんなに傷つけてるなんて思ってなかったんだよ。大人になった日葵は、もしかしたらあの時のことなんてこれっぽっちも気にしてない。その可能性だってゼロではないだろ?」確かに、この離れていた時間のお互いのことはわからない。その可能性だってなかったわけではない。日葵はそう思うと小さく頷いた。「じゃあどうして?」「もちろん、日葵の態度でも気づいた。極めつけは誠真だな」意外な言葉に日葵は驚いて目を見開いた。「誠真? どうして誠真?」いきなり出てきた弟の名前に、日葵は声を上げた。「こないだ久しぶりに飲んだんだよ。あいつ日本に帰ってきただろ?」弟の誠真は大学を卒業後、壮一の父親である会社に入社し一年間アメリカへと行っていた。「そういえば帰ってきたわね。あの子」「あの子ってお前。誠真だって大人だろ」壮一が少し笑って言ったのを聞いて、日葵も少し笑みを漏らした。「それで?」「親父の会社に入ったけど良かったかって。俺だって誠さんの会社に入ったわけだし、全く問題ないって答えたよ。本来、やりたいことが逆だったらよかったなって話をした」確かに壮一も誠真も、自分の父親の仕事を継ぐのがよかったのかもしれない。でも、今はまだお互いのやりたいことが逆だ。「そうだね」そう答えた日葵は、チラリと壮一に視線を向けると、瞳がぶつかる。どちらからともなく視線を逸らすと、壮一が静かに言葉を発した。「その時聞いた。どれだけ日葵が傷ついて、目も当てられないほどだったかって……」(誠真……)確かにあのことは、誠真の優しさもすべて無視して、一人の世界にこもっていて心配をかけたのだろう。「めちゃめちゃ怒られた。あの誠真に。大人になったな」「そうだね」怒ってくれた誠真の気持ちが